雄山神社
HOMU
立山頂上
峰 本 社
芦峅中宮
祈 願 殿
岩峅
前立社壇
御 由 緒
白鷹伝説
アクセス
oyamajinja003001.jpg
 今を去ること一三〇〇年余り前、第四十二代文武天皇がある夜夢を見られた。その夢で
「いま、越中の国に騒乱絶えず。四条第の佐伯宿禰有若をして治めしむれば即ち平安に至らん」
と神のお告げがあった。まもなく越中国司に任ぜられた有若は一族を伴って都を発ち、日を重ねて加越国境の倶利伽羅山にさしかかった。そのとき、紺青の空から一羽の白鷹が舞い下って有若の拳の上にひらりと止まった。見れば全身白銀に輝き、眼は鋭く世にもまれな美しい鷹である。有若は喜び勇んで
「我、越中に入らんとするにこの奇瑞を得たるは神の恵みなり。終生治国の象徴とせむ」
と言って、長旅に疲れた一族を励ました。
 有若の政庁は新川郡の保伏山にあった。朝夕政治に心を砕き、悪者を退け、産業を興したので住民は大いに善政を喜び、国中は太平を楽しんだ。
 有若には年来子供がなく大変寂しい思いをしていたが夫婦ともどもに東方の神山に心願を立てて祈っていたところ、ある夜神立ちがあり
「我は刀尾の明神なり。汝らに一子を授ける。有頼と名づけよ」
との言葉を聞いた。やがて一人の男子が出生し有頼と命名された。有頼は父母の愛情のもとに健やかに成長し、立派な少年となった。
 十六歳になった夏のある日、有頼は父が何よりも大切にして飼っている白鷹を借りて、鷹狩りに出たいと父に申し出た。しかし、父の有若はどうしても許してくれない。仕方がないので父に隠れてひそかに鷹を持ち出し野に放った。すると白鷹はどうしたのか急に羽ばたいて大空に舞い上がり、辰巳(南東)の方を指して飛び去ってしまった。有頼は驚いて彼方此方を探し回ったが見つからない。一里行き二里行き、ついに道に迷ってしまった。勇気を出してさらに行くと岩の上に神座(岩峅)があり、前方に大川が流れて対岸に松林のある所へ出た。ふと見ると一本の大松(鷹泊)に、何としたことか狂気の如く尋ね求めている白鷹が止まっているではないか。有頼は喜んで直ちに大声をあげて呼ぶと白鷹は嬉しげに飛び来たり、まさに有頼の手に止まろうとした一瞬時、側の竹やぶから一頭の黒熊が踊り出た。鷹は驚いて再び大空に舞い上がり、熊はやにわに逃げ出した。有頼が怒って弓を引き絞り、はっしと熊を射れば、矢は月の輪の横にあたり、血を点々と流しながら走り去った。
 有頼は血の痕(千垣)を追って山に分け入り、更に進むと広々とした山原に出た。そこにはたくさんの池があり、葦が生い繁って叢なせる清浄な神座(芦峅)があり、側に白髪を垂れ左手に麻の緒を持ち右手に長杖を持った三人の老婆が待っていた。老婆は有頼に向かって
「汝の尋ねる白鷹は東峰の山上にあり。汝行かば必ず得らるるも、川あり坂あり至難の道なり。汝もし初一念を貫かんと欲すれば最も勇猛心と忍耐心を要すべし。苦を厭うならば早々ここより立ち去るべし」
と教え諭した。
 有頼は老婆に感謝し勇を鼓して行けば大川があって渡ることが出来ない。思案に暮れているとたくさんの山猿が出てきて藤を使って橋(藤橋)をかけた。幸いと喜んで渡り、険しい山坂をたどること七日七夜、ついに山上の高原に立った。四方をめぐる山々は八葉蓮華の花の如く、去来する雲や霧も全くこの世のものとは思えない。原一面に花咲き乱れ一本の木もなく、巨岩は天柱の如く聳えたち、夏なお万年の雪が谷々を埋め尽くしている。
 有頼はそら恐ろしい心にむち打って一歩一歩踏みしめ行き、ふと見れば、我が愛する白鷹は天を翔けり憎っくき黒熊は地を走り、不思議やともにそろって岩屋(玉殿岩窟)にかけ入った。有頼は喜び
「ああ辛苦の甲斐あり。今こそ彼の熊を仕留めて鷹を得て帰らむ」
と刀を抜いて岩屋に踏み込めば、これはまた何事ぞ、暗い洞穴と思いきや、光明燦然として五彩に輝き、幽香ふんぷんとして極楽の霊境である。奥に阿弥陀如来と不動明王の二尊の聖姿が立ち並び、しかも己が射た矢が阿弥陀如来の胸に打ち立って血は傷ましく流れている。
 有頼は大いに驚き、夢見る心地の中にも次第に己が犯した罪の恐ろしさに身体がわなわなと打ち震え、嘆き悲しみ
「如何なる前世の宿業か。かかる大罪犯して尊き聖身を傷つけまいらせ、せめてもの申しわけにも」
と刀を逆さにして我と我が腹をかき切ろうとしたとき、両尊はこれを押し止めて有頼に告げて申された。
 『我、濁世の衆生を救わんが為、十界をこの山に現し、幾千万年の劫初より山の開ける因縁を待てり。この立山は峰に九品の浄土を整え、谷に一百三十六地獄の形相を現し、因果の理法を証示せり。我、汝を得てこの山を開かんと待つこと久し。汝の父をして当国の司たらしめしは我なり。汝の生をこの世に与えしも我なり。畜生の姿を借り、身を損ないて導きしも、また我なり。汝の名を顧みよ。頼み有りと申すにあらずや。阿弥陀如来は即ち伊邪那岐神の本地にして、不動明王は即ち天手力雄神の本地なり。汝、切腹など思いもよらず、これより直ちに当山を開き、鎮護国家、衆生済度の霊山を築け』
 時に大宝元年七月二十五日の早朝と伝えられる。
 有頼は地にひれ伏して拝み奉り、立山の御為に一生涯を捧げ尽くすことを誓い、直ちに下山して父有若にこの事を告げた。更に父と同道して都に上り、朝廷に奏上したところ、文武天皇の御感激浅からず、勅命を下して、立山頂上より東西十三里、南北三里を霊域と定め給うた。有頼は同志の修行者と力を合わせて道を切り開き、橋を架け、室所を建てて諸人の参詣禅定に充て、絶頂に立山大権現を祀る霊殿を築いた。
 有頼は出家して慈興と号し、山麓芦峅寺に居を構えて、当時は新川と呼ばれた常願寺川の南北六箇所に堂塔社殿を建立し、立山禅定の弘宣に一生を捧げた。有頼は齢八十三歳にして自らの定命を悟り、天平宝字三年六月七日、竜象洞と称せられる土穴の中に生きながら入定した。涙を流して別れを惜しむ人々に
『なにはがた 葦の葉毎に 風落ちて よし刈る舟の 着くは彼の岸』
と辞世の一詩を残し、土の下より鐘の音の聞こゆること七日七夜に及んだということである。
白 鷹 伝 説
立山開山縁起(略記)